石橋 泰幸 / 九州派

Yasuyuki Ishibashi

【Japanese】

九州派の中心メンバーの一人。
九州派の前身である「ペルソナ展」に参加し、九州派という組織づくりの原動力となったのが二科展出品者の保野衛、桜井孝身、石橋泰幸、オチ・オサムの4人である。

九州派の象徴であるコールタールを使い始めたのは石橋である。
「安いうえに、不思議な光沢があるし、量感もある。道を歩いていて、これだと思いまし た。道路工事用のコールタールをもらいにいくと、何に使うのか、と聞くので、絵をかくと言うと、ビックリしていましたよ」(石橋)<駆け抜けた前衛 5 西日本新聞>より抜粋

作品の冒険、実験にあけくれていた九州派の中でも、特に目立った存在が石橋泰幸だった。
九州派のメンバーでもある山内重太郎が語る。
「九州派時代、彼のダダ的冒険というべき、実験的作品は、幾人かの作家のものとともに九州派の作品をリードしてきたと私には見える。
九州派時代もそれ以後も、泰幸さんほど実験的作品を作り続けてきた九州派の作家はいない。
しかも、彼の多岐に亘る実験的作品は、単なる思いつきなどではなく、確かな技術と強い自身に裏付けられたものである。」
さらに、西日本新聞「駆け抜けた前衛 15」(田代俊一郎)にて、九州派時代の逸話が記されている。
「大黒愛子は、その異様な作品をみて「何をやってもいいのか」と、それまでの自分の芸術概念が崩壊していくような衝撃を受けた。
その作品は、石橋泰幸が第一回「九州派展」 (東京・銀座画廊、昭和三十四年)に出品した作品「WORK」である。アスファルトピッチで縦長のだ円を描き、その中にしわくちゃの新聞紙を張りつけていた。
石橋はその作品で「存在の重量感」を表現した、つもりであった。大黒は、それを「便器の風景」と受け取った。その解釈論は別にして、伝統的な造形、素材に縛られていた大黒にとって、目からウロコが落ちるようなものだった。」

桜井は「具体」の吉原治良のような絶対的なリーダーではなかったし、かれの行動と思想は九州派にとってプラス面だけを提供したものでもないだろう。しかし、この天性の組織家、行動家、教育者であり、社会的・生物学的共同体への飽くなき夢想家であり、攻撃的アジテーションと楽天的ヴィジョンを兼ね備えたこの基台の人物なしには九州派がありえなかったことは確かであろう。
詩人の保野は九州派の名付け親と考えられ、機関紙の初代編集長であり、初期九州派の方向づけに大きな役割を果たした。オチは「60年代前半の質を超えていた表現者」「反モダン・アートという主張をもっともよく具体化している作家」と評され、アスファルトなどの表現手段の実験、徹底した生活者の意識に根ざしたダダ的作品、オブジェへの展開、特異なミニマリズムへの接近などに見られるように、九州派的な作品の実験を先導した最重要メンバーである。組織家桜井と、前衛作家・オチのうち、どちらが欠けても九州派はもっと短命に終わるか、あるいは意義の少ないものになっていただろう。

石橋も最後まで九州派に属した、実験性と俗っぽさを兼ねそなえた代表的な作家であり、また桜井とオチの渡米後も九州にとどまり解体期の九州派を支えた。(九州派大全より)

1930 東京に生まれる
1949 福岡県立八女工業高校卒業
1949 西日本鉄道入社
1952 第37回二科展 東京都美術館(〜’54)
1956 ペルソナ展 福岡県庁西側外壁 web
1956 – 63 読売アンデパンダン展(東京都美術館)
1957 – 68 九州派参加
1957 第1回アジア青年美術家展(東京都美術館)
1962 今日のヴィジョン展(東京)
1965 ’65日本・今日の美術展(東京)
1966 サンフランシスコ展覧会(サンフランシスコ)
1968 夜だけの現代美術展 宮崎観光ホテル/宮崎市 具体メンバー藤野忠利の働きで具体メンバーと共に参加
1968 – 70 九州・現代美術の動向展 福岡市民会館 web
1970 可能性への意志 (北九州市立八幡美術館)
1971 第10回現代日本美術展(東京都美術館)
1973 個展(福岡県文化会館)
1974 個展 九州画廊/久留米市
1975 版画展(東亜画廊)
1975 今日の美術展(福岡県文化会館)
1976 多元的抽象展(福岡県文化会館)
1976 プリントアート6 東亜画廊/福岡市
1977 プリントアート 福岡市秀巧社アート・ギャラリー
1977 白の空間展 福岡県文化会館 text
1978 個展 エンギャラリー/福岡市
1979 プリントアート17 福岡市秀巧社アート・ギャラリー
1979 第2回ジャパン・エンバ美術展(エンバ中国近代美術館)
1980 第1回福岡美術家協会展(福岡市美術館)article
1980 第1回アジア現代美術展(福岡市美術館)text
1980 個展 天神アートサロン/福岡市
1980 石橋泰幸・加呂昌太郎二人展(福岡市美術館)
1980 アジア現代美術展 福岡市美術館
1981 韓・日現代絵画展 韓国文化芸術振興院美術会館/ソウル市(’83.’85,’87)
1982 第2回日韓現代美術展 福岡市美術館(’84.’86,’88
1985 個展 ギャラリーとわーる/福岡市 (’88)article
1987 崔明永・石橋泰幸二人展 SOOギャラリー/ソウル市 catalog
   崔明永の絵画 千葉成夫123455-167YouTube
1988 九州派展ー反芸術プロジェクト 福岡市美術館
1998 福岡美術戦後物語 福岡市美術館
2001 福岡市で死去
2004 痕跡ー戦後美術における身体と思考 京都国立近代美術館・東京都国立近代美術館
2015 「九州派展」福岡市美術館

収蔵
福岡市美術館・北九州市美術館・大分市美術館・添田町美術館


【English】

Ishibashi is one of the founding members of Kyushu-ha.
He was part of the ”Persona Exhibition”, which preceded Kyushu-ha and also the driving force that formed Kyushu-ha, consisting of the exhibitors Matano Mamoru, Sakurai Tamaki, Ishibashi Yasuyuki and Ochi Osamu. Sakurai was not an absolute, “concrete” leader like Yoshihara Jirou, his actions and ideas might not have always benefited the group. However, it is certain that without this innate organizer, activist, teacher, untiring dreamer of social and biological communities and person, who combined both aggressive agitation and optimistic vision, Kyushu-ha could not have existed like it did.
The poet Matano was considered Kyushu-ha’s godparent; he was the first editor-in-chief of their bulletin and he played a big part in guiding Kyushu-ha in their early stages. Ochi was described as ”expressionist, who surpassed the nature of the early half of the 60s”, ”an artist, who embodies the often made claim of anti-modern art” and was one of the most important members, who introduced Kyushu-ha-esque experimental works like trying out different ways of expression using asphalt or other materials, works that are rooted in Dadaism, while having a thorough sense of the ordinary life, twisting objects and approaching a unique minimalism. Without either organizer Sakurai or avand-garde artist Ochi, Kyushu-ha would have been short-lived or perhaps less meaningful.
Ishibashi was part of Kyushu-ha till the end as well as an exemplary artist, who combined both an experimental nature and simple entertainment; also, even after Sakurai and Ochi moved to the US, he supported Kyushu-ha until it dissolved.
(source: Kyushu-ha Taizen)


<美術館コレクション Museum collection>
福岡市美術館 →石橋泰幸収蔵作品


「黒の平面空間Ⅳ」
oil on board
W1070 × H580 mm 1987
空間に並列する2つのスクエア〈正方形〉が存在する。
一方は黒っぽい無地のグレー。しかし、よく見ると琳派の如く、小さな正方形がいくつも並んでいるではないか。
もうひとつはナイフで削ったマチェールのなかに、ごく薄い黒い滲みの斑点が点在する神秘な表現である。
じっと見つめているとそこから何もない面に眼は移い、さらに無の中から新たなイメージが湧いてくる。語りかけてくる絵とはこういうものか、とても魅力的である。


「作品」
Drawing on paper
W325 × H260 mm


「作品」
Drawing on paper
W325 × H260 mm


「作品」
Drawing on paper
W325 × H260 mm


「作品」
oil on canvas
W335 × H245 mm


「作品」
oil on canvas
W320 × H410 mm


「作品」
oil on canvas
W320 × H410 mm 1966


【About Kyushu-Ha】

Japanese text
English text
Chinese text


【Text Japanese】
九州派を代表する画家の一人、日韓交流現代美術展において。 石橋泰幸 text

岡本太郎へのことば 川崎市岡本太郎美術館刊 石橋泰幸 text

沈黙 原書 石橋泰幸 text

脚 石橋泰幸 text

美術館への提案エスキース text

石橋泰幸さんと九州派 山内重太郎 text

父の背中 石橋潤一郎(石橋泰幸・息子)text

【Article Japanese】
西日本新聞 文化欄 前衛たちの軌跡 九州派から四半世紀 1988年 article

28th Nov 1985.毎日新聞 横へ広がる空間 article

西日本新聞8th Aug 1986 混とんの中に熱気 日韓現代美術展 article

朝日新聞 美術 9th Aug1986 日本の造形性と韓国の精神性 article

毎日新聞 14th Apr 1988 黒の多様な表情 article

西日本新聞 15th Apr 1988 黒の平面空間 article

フクニチ 8th Feb 1977 限りなく透明な空間 深野 治 article

西日本新聞 6th.Nov.2001 九州派の「切り込み隊長」石橋泰幸さんを悼む 黒田雷児 article

【Text Emglish】
One of the leading painters of the Kyushu-Ha, at the Japan-Korea Exchange Contemporary Art Exhibition text

Yasuyuki Ishibashi and Kyushu-Ha-written by Jutaro Yamauchi text

Father’s Back Junichiro Ishibashi (Yasuyuki Ishibashi’s son) text

Silence Yasuyuki Ishibashi text

【Article English】
Nishinippon Shinbun Trajectory of the Avant-gardeSeptember 26 – October 8, 1988 #article

Mainichi Newspaper 14th Apr 1988 Various Expressions of Black article

The Nishinippon Newspaper 15th Apr 1988 Black Plane Space article


Gallery MORYTA exhibition 九州派 2019 website
Gallery MORYTA exhibition 九州派 2018 website