「九州派」 4月27日(土) ー 5月19日(日) 13:00 - 19:00 月曜休廊 桜井考身・石橋泰幸・山内重太郎・磨墨静量・尾花成春 九州派 – Gallery MORYTA | ギャラリーモリタ

九州派

KYUSYU-HA

2019年4月27日(土)ー 5月19日(日)

「九州派」
4月27日(土) ー 5月19日(日)
13:00 – 19:00 月曜休廊
桜井考身・石橋泰幸・山内重太郎・磨墨静量・尾花成春

画廊全体展示風景

戦後、東京では「ネオ・ダダ」 、 関西では「具体美術協会」などの美術団体が生まれた。
ほぼ同じ時期、福岡市で結成された奇跡の前衛美術集団「九州派」はとりわけ異彩を放っている。
1988年、福岡市美術館における「九州派援一反芸術プロジェクト」 の開催により、その
全容が明らかとなるまで、「九州派」は長い間伝説のベールに包まれたままだった。
作品の保存よりもまずその効果やアピール度を重要視し、形をともなわない活動形態も数多くあったため、作品としてほとんど現存していない。
『作品がない』という現実自体も、いわば九州派の痕跡なのだ。九州派を世に問うことはロマンにほかならない。


【西日本新聞 12 May 2019】

東京中心のアカデミックな美術表現に対抗し、1950~1960年代にアスファルトを多用した作品などで異彩を放った前衛芸術集団「九州派」に焦点を当てた展示の第2弾。桜井孝身や磨墨静量らに加え、山内重太郎の作品を展示、グループ買いたいから優れた個の作家の誕生という過程が浮かび上がる。九州派が提起した「創作における地方性」という課題が未解決であることにも気付かされる。


▪️ 九州派について
1950年代後半から60年代初め(昭和30年代)は、国内外において芸術の変革が叫ばれはじめ、 多種多様な美術が登場し始めた時期にあたります。日本においては、この頃東京だけでなく各地方都市でも様々な前衛美術グループが結成されました。既存の公募団体によって作り上げられた美術システムに不満争抱いた若い美術家たちがグループ争結成し、無審査の公募展「読売アンデパンダン展」や屋外など作品展示には向かないような場所や舞台として、「絵画」「彫刻」 の枠には収まりきれないエネルギーあふれる実験的な作品を発表し始めました。東京の「ネオ・ダダ」 、 関西の「具体美術協会」がその代表的なものですが、中でもとりわけ異彩争放っているのが福岡市で結成された「九州派」です。

桜井孝身、オチオサムらを中心に結成された「九州派」の特徴は、生活者の視点からの美術表現や人々の生活に根ざした活動姿勢にあると言えます。それは日常の現実の中に美術や引き下ろし、また逆に、 日常の卑俗さなどを一つの美術表現に高めようとする行為、と言い換えられるでしょう。これは、九州派メンバーのほとんどが専門的な美術教育舎受けておらず、「画家」であると問時に「生活者(労働者)」 であるという意識を強く持っていたこと、当時福岡県内では三井三池争議に代表される労働組合運動が盛り上がっており、思想的に共鳴する者が九州派内に含まれていたことなどが背景となっていると思われます。

九州派の作家たちは廃材やごみを作品素材として用いましたが、最も特徴的なものがアスフアルトです。印刷会社勤務のオチオサムが印刷工程で見出し、九州派のほぼ全員が利用しました。都市化の進み始めた福岡市内で入手しやすかったアスフアルトは、安価で、しかも独特の光沢争もち乾燥も早かったためです。また光沢のある黒という色が、日本の近代化を支えた三池の石炭と労働者のエネルギーを連想させたため、この素材は九州派のトレードマークとなりました。 結成当初は、東京での頻繁な展覧会活動によるその存在のアピール、そしてアンデパンダン展の組織などによる地元美術界の再編を試みました。しかし「前衛」に対する意識の違いから 1959年末に大分裂。桜井により再建されるも、彼らが思想的根拠争置いていた三井三池労働争議が 1960年に組合側の敗北に終わるという時代背景の変化とともに、九州派自身も活動のエネルギーや失い、1968年のグループ展参加を最後にその活動に幕を下ろしました。

作品の保存よりもまずその効果やアピール度を重要視した作品が多く、作品の形やともなわない活動形態も数多くあったため、作品として現存するものは極めて少なく、九州派は長い間伝説のベールに包まれたままでした。1988年、福岡市美術館における「九州派援一反芸術プロジェクト」 の開催で、その全容が明らかとなりました。2015年には、同館の編集による「九州派大全」 (福岡市文化芸術振興財団発行)が刊行され、九州派への注目が高まっています。

▪️ About Kyushu-Ha

From the late 50s and early 60s, changes in the art world began to take place both nationally and internationally and a wide variety of art began to appear. Around this time in Japan, various Avant-Garde groups were formed not only in Tokyo but also in various other cities.

Young artists dissatisfied with the traditional art system formed a new group and began to release energetic, experimental works that could not fit within the category of “painting” and “sculpting”.

The “Neo Dada” in Tokyo and the “Gutai” in Kansai are typical, but above all the “Kyushu-Ha” formed in Fukuoka City is one of the most distinctive. Takami Sakurai, and Ochi Osamu formed “Kyushu-Ha” features around an ordinary person’s perspective of expression of art and activities rooted in life. Enhancing everyday items into high level art expressions, expressing in other words that art exists in everyday’s reality.

This means that most of the Kyushu-Ha members did not receive specialised art education, there was question whether they were “painters”and they were strongly aware that they were “consumers” (workers). At that time in Fukuoka Prefecture the labor union movement represented by Mitsui Miike was rising, and it seems to be the background that resonates ideologically with Kyushu-Ha.

The Kyushu-Ha writers used scrap wood and waste as materials, but their most distinctive material is Asphalt. Ochi Osamu, who worked at a printing company, found this out in the printing process, and almost all members of Kyushu-Ha used it. Asphalt was easy to obtain in Fukuoka city where urbanisation began to progress, because it was cheap, and it had unique luster and fast drying. The shiny black colour was associated with Miike’s coal, which supported the modernisation of Japan, and the energy of workers, so this material became a Kyushu-Ha trademark.

At the beginning of the formation, the Kyushu-Ha tried to appeal its existence by frequent exhibition activities in Tokyo, and to be reorganised by the local art world. However, due to the difference in awareness of “Avant-Garde”, the end of 1959 was a major division.

Sakurai tried to rebuild the Kyushu-Ha. With the historical background of the time when the Mitsui Miike labor dispute over philosophical basis ended in union defeat in 1960, the Kyushu-Ha itself also lost its energy and activities, and lastly participated in the group exhibition in 1968 ending its activities.

The Kyushu-Ha first emphasised its effects and degree of appeal rather than preservation of works.There are many forms of activities that do not have the work form, so there are very few existing works. Naturally, the Kyushu-Ha has been wrapped in a legendary veil for a long time.

In 1988, the “Kyushu-Ha One Anti-Art Project” was held at the Fukuoka Art Museum, and the whole story became clear. In 2015, “Kyushu-Ha” edited by the museum was published, and Kyushu-Ha started gathering attention worldwide.


■ 三池闘争と朝鮮戦争に刺激を受けて、ある種の熱気を持った九州に生まれたこのグループは、労働戦線の人間と彼らをとりまく文学者と多く交流を持ち、その枠組みの中で「反東京」「反芸術」を含む組織論や表現論を生活原理の上で査証しようと試みたグループだった。
<フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋>
https://ja.wikipedia.org/wiki/九州派

■ 日本の前衛の作品は今日まで残されていないケースが少なくありません。そのなかでも、「具体」に数年遅れ「ネオ・ダダ」に数年先んじた「九州派」の往時の作品は、ほとんど失われたと言っていいでしょう。というよりは、作品を残そうとする事自体が彼ら自身によって忌避されたのだとも言われています。その意味でも九州派は、当時林立した前衛グループの中でもとりわけラディカルに、反芸術傾向を示した集団だったと言えます
<現代美術史日本篇より抜粋>
https://www.aloalo.co.jp/arthistoryjapan/2b.html

■ 由布院アートに関する数々の提言をして下さった菊畑茂久馬氏、空想の森美術館で個展をして下さった大黒愛子氏、尾花成春氏、大黒氏の夫で九州派のまとめ役的存在だった小幡英資氏など、多彩な作家たちが縁を結んでくれたのである。そしてその多くが、九州派解体後、作家として優れた創作活動を続けておられる実直でダンディーな紳士たちであった。
<森の空想ブログ 「九州派」 カッコイイぜ。よりより抜粋>
https://blog.goo.ne.jp/kuusounomori/e/cb3374b9a259f30e4531f7edbc70d677

■ 厚塗りの黒いアスファルト、ちりばめられた釘(くぎ)や金網。九州派を率いた桜井孝身の「リンチ」(58年)は異様な空気を漂わせる。山内重太郎が画面にガソリンをかけて火を放った「作品5」(同)も来場者を圧倒する威圧的な雰囲気をまとう。田部光子、石橋泰幸、尾花成春…九州派の作品がずらりと並ぶ空間は壮観だった。

今回九州派と一つの空間を共有して展示された具体美術協会は既に世界各地で展覧会が開かれ、作品価格も高騰している。九州派は残っている作品の数が少なく、鳥取県立博物館の尾崎信一郎副館長は「今まで十分な評価を受けていなかった」と指摘する。
<再評価をされる九州派・福岡市美術館コレクション展【コラム】より 6月4日西日本新聞朝刊に掲載>
https://artne.jp/column/633

■ 福岡を拠点に、身近な生活用品を素材として用いながら、反公募展、反東京の姿勢を強く打ち出した前衛芸術家グループ。詩誌『詩科』の詩人・桜井孝身や俣野衛、同誌の表紙やカットを手がけていた二科展の画家・黒木耀治や寺田健一郎、第40回二科展で岡本太郎に抜擢され注目を集めたオチオサム、久留米の画家・石橋泰幸らが集い、1956年11月に福岡県庁外壁で野外詩画展を開催。これを機に菊畑茂久馬、山内重太郎、田部光子ら若手作家が加わり、57年7月、「九州派」(別称「グループQ」)が誕生した。
<美術手帖 ART WORDS 九州派より抜粋>
https://bijutsutecho.com/artwords/68