横田海 展 – 詩の種子 –

kai Yokota Exhibition

2001年11月24日(土) - 12月23日(日)

■ DMテキスト
あるときポーンと抽象へ飛んだわけですが、僕の場合は具象から たたきあげた抽象。
どこか具象の記憶をひいている。画面のなかの秩序というものが見えている。
人間は感情の動物ですからね、痛いもかゆいも死にたいも死にたくないも、みんな具体的な感情、感覚なんだ。
僕の具体的な抽象、経験された抽象ですよ。
<横田海>

■ 横田海プロフィール
1934年東京生まれ。
九州天草で育つ。
1968 21歳で上京、新宿美術研究所にて麻生三郎、山口長男の指導を受ける。
1977 フオルム洋画研究所入所
現代画廊の洲之内徹に見い出され、全国の画廊にて展覧会を開催する。

横田海と接していると、それだけで自分の内側からエネルギーがむくむくと盛り上がってくるのが分かる。
横田海は勢いがいい。きっぷがいい。その生き様が絵にストレートにぶつけられる。
それは横田海が人生を芸術に捧げ、美を極め、紡いでいくことに賭けていることが伝わってくるであろう。日々、創造し新しいものに向かっていく姿勢がみなぎっている。
あの現代画廊・洲之内徹氏に見い出された。
求める精神性を長谷川利行にダブらせた時期、洲之内徹氏に指摘され、さらには、そのまま突き進むよう励まされたと言う。
90年代に入り、40代になった横田海の画風は大きな変化を遂げた。
風景などを中心に描かれていた具象から抽 象へと変わっていった。
もちろん具象に行き詰まったからではなく、精神的無頼派である自由奔放さからの必然 的な道程であった。
具象からたたきあげられた抽象は、絵に奥行きが広がり深みが増している。しかも、それでいてさわやかに織
りなされた色彩がさわやかささえ漂わせている。
「本来、完全なる抽象なんてないんです。そんなものは猫にでも描かせておけばいいんです。
僕のは具体的な抽象、感情を持った人間自身から生まれる具体的な経験された抽象なんだ」
と横田海は語る。

■ レビュー
絵の中の新しさ
高い所が嫌いだと言って、上へは昇らずに工事現場にまわった。他の人がサクラファファミリアに上っている間、海さんが下でスケッチをしていたらしい。どんなスケッチだかはわからない。紙の上なのか、頭の中だけなのか。いづれにせよ、何かを見つけたことだけは確かだ。海さんは実に反応が早い。対象が彼に、「ここを描けよ、これを描けよ」と叫んでくれるのかもしれない。そして、見たもの、感じたものがおもしろいように次の形となって表れる。だから横田海の個展は、そのたびに違った展開を見せる。必ず新しいものが顔を出す。この新しさはいったい何だろう。
 
“新しさ”にはいくつもの解釈があると思う。海さんともよく話すことだが、少なくとも私には2つある。
 
1つは、創造とかチャレンジという新しさだ。発見や発明もある。過去を模倣することなく、常に前向きに自分が新しいと感じたものを積極的に取り入れていく姿勢だ。そこには画家としての誇りがある。だからこそ、他の誰でもない、横田海の絵の世界が出来上がっていく。 だから、その辺に転がっている程度の創造力や表現力ではダメだ。今という新しい時代に生きていて、感動するものに出会えないほど感受性が乏しいなら、芸術家なんか失格だ。新しい時代の絵画なぞ生まれるはずがない。
 
しかし、人はときにこの新しさを勘違いする。最近の傾向のひとつだが、単に、今まで人がやっていないことを表現すれば、それが新しいことであり、芸術の革新だと評価する風潮がある。
それはそれで良いのかもしれないが、それだけでは、私にはどうしても納得がいかない。奇をてらったものや流行、ファッションの先端を行っているにすぎないものが、あまりに多いからだ。そんなものは二流デザイナーに任せておけばよい。

見た目の新しさでは、絵は歴史に残らない。時代をつくることも出来ない。恐いのは、その作品の本質的な”美”がないと、今新しい思う作品が10年経つと古くなって、見るに堪えなくなってしまうことだ。どんな最新ビッグニュースも、明日は古新聞だ。ゴミと化す。
 だから、そこにはもうひとつ新しさが必要だ。
 
スペインを歩いて、古い時代の絵画から最近のコンテンポラリーまで沢山の絵に出会った。そして、少し解ってきた。新しい時代の絵がより新しいとは限らない。ベラスケスはいまだに新鮮だ。普遍的な新しさというものがあるのだろう。それが、”美”だ。人はそれに感動する。だから、あのピカソでさえ、ベラスケス「ラス・メニーネス」をコピーしているではないか。そして、そのピカソの描いた絵もまた、時代を超えた新しさを感じさせる。
 
しかしバルセロナの美術館を廻ってほんとうにショックを受けたのは、実はピカソでも、ミロでも、タピエスでもなかった。モンジュイックの丘カタル-ニャ美術館、ここに1000年ほど昔の壁画が展示されている。当時、異教徒に追われて山中に逃げ込んだキリスト教徒たちが、密教徒となってつくった教会や修道院の壁画だ。約50点ほど。わずか数色の絵の具で描かれた、それらの壁画を見たとき、「今の現代美術」が吹っ飛んでしまった。「この斬新さはなんだ!」と海さんと顔を見合わせた。
 
「変わったことなんか要らないよ。考えもしなかったよ。描きたくて一生懸命祈りながら描いたんだよ。」壁画はそう言っているように聴こえた。
海さんは言う。「絵の仕事は、成功したことを満足するのではなく、自分が満足した仕事を成功と思わねばならない。」そういう地味な仕事で良いと。そこに、どれだけの思い入れと魂が入るのか、絵の価値は、それで決まる。同時に不変の新しさや美が宿る。
 
サクラダファミリアは気の遠くなるような年月をかけて、いつまでも建設中だ。この教会は、スペインにとってもバルセロナ市にとってもメインの宗派ではないから、そういったところからの援助はない。ガウディという偉大な芸術家に引き寄せられたボランティアや観光客、それに信者のお布施で、少しずつ完成に向かっている。ゆっくりとゆっくりと、人々に感動を与えながら。

あとになって制作された横田海の「サクラダファミリア工事現場」。いい作品だ。100年か、200年経つと、あの工事現場はなくなるかもしれない。ただいまスペインひとり旅。日本に戻って、海さんの絵が見たくなった。
<高橋健司>

■ Opening
11月24日(土)pm4:00~ 「横田海を囲んで」