MUSEUM ON" /> Shigenobu YOSHIDA exhibition ISRAEL 2019.2.6-2.10 Jerusalem | Gallery MORYTA | ギャラリーモリタ

ISRAEL 2019.2.6-2.10 Jerusalem

Shigenobu YOSHIDA exhibition

2019年11月2日(土)- 11月24日(日)

吉田重信 新作展
Shigenobu Yoshida exhibition

<テキスト>
2019年1月、イスラエルのエルサレムにある現代美術館MUSEUM ON THE SEAM Socio-Political Contemporary Art Museumにてグループ展「The Case of Hiroshima」が開催された。

アンゼルム・キーファーイケムラレイコとともに、ディレクターのRaphie Etgar氏のオファーを受け吉田重信も参加することとなった。

参加アーティスト
Anselm Kiefer,Germany / Oliver Pietsch,Germany / Joram Rozov,Israel / Larry Abramson,Israel / Yoshida Shigenobu,Japan / Shirin Abedinirad,Iran / Via Lewandowsky,Germany / Isao Hashimoto,Japan
Erez Israeli,Israel / Guli Silberstein,Israel/ England / Gilad Ophir,Israel / Leiko Ikemura,Japan/ Germany / Micha Ullman,Israel

吉田にとって人生初の訪問地イスラエル、エルサレム。
今企画はその時の体験から生まれた。

解説
『寂光』非物質的な光への道

 吉田重信の作品はいつも色彩にあふれているが、今回の「寂光」は、赤だけである。カメラのレンズの前に赤いフィルターを付けて撮影された風景写真であるという。異様でありながら、詳細に見ていくと、私たちには曙光のようにも、日没の光のようにも見え、不思議に心が引き込まれる作品である。この作品はどのように成立過程を経て生まれ、どのような意味があるのだろうか。
 吉田は色彩の作家である。色彩の作家とは言っても印象派のように色彩ゆたかな絵画を描く、ということではない。この作家は色彩のついた光を用いて作品を制作する。ここには大きな相違がある。絵画において色彩は反射光であり、画布の上に置かれた顔料や染料が特定の波長の光の反射することで私たちは色彩を見る。絵画に当てられる光は自然光もしくは自然光に近い人口光が求められる。つまり、あらゆるスペクトルを含んだ光が理想的で、そういう光ならば、顔料や染料が最も効率よく色彩を反射してくれるからである。
 しかし吉田の場合は、光そのものに介入する。例えば自然光を色彩のフィルターに通し、特定の色彩だけ分離する。具体的にはガラス天井に透明な色彩のフィルムを張り、自然光に色をつけ、色彩の透過光を壁や床に投影させるのである。多くの場合、自然光は複数(ただしあまり多くない数)の色彩に分離される。色彩のフィルターをプリズムにすれば、自然光は虹色に分離される。虹色とはあらゆる色彩が分離された状態である。
 特定の色彩のフィルターにせよプリズムにせよ私たちは分離された色彩の光が何らかの物体に投影され、そこに反射された光の目の網膜で捕捉して見るのである。絵画作品との違いは、絵画作品が一定の条件の光の下で常に同じ色彩を反射する絵の具の分布で成り立っているのに対し、吉田の作品ではそうした固定されたものではなく、色彩は自然光という常に変化するものに寄りかかっていて、作品は時間とともに移ろっていくことである。
 こうした自然光の状態への依存を断ち切っ他のがプリズムを目の前に置くという行為である。目の前に置かれたプリズムを介して世界を眺めれば、私たちは虹色の反射光を見るのではなく、虹色に分離された風景を直接網膜に投影する、ということになる。吉田はこうした状況をビデオカメラで実現した。カメラのレンズの前にプリズムを装着して風景を撮影するのである。私たちはその映像を見ることで目の前にプリズムを置いた状態を疑似体験する。
 そしてプリズムは今回の「寂光」では赤いフィルター一つとなった。
 これは目の前に赤いフィルターが置かれ、赤い色彩のみで世界を見ることを強いられている状態である。自然光でも人口光でも、光がある限り目に見えるものは赤くなる。こうした体験は例えば黄色いナトリウムランプの点灯されたトンネルに入った時に、全てがグレーの諧調に還元された光景を見ることに似ているが、重ねて言うように、ここでは反射光ではなく透過光である。
 吉田によれば、人間が生まれてきて最初に見る光景はこのように赤く、また死の間際に見る光景も赤い、という。赤は人間が体内に持っている血の色である。太陽に向かって目を閉じればやがて視界は赤くなる。私たちは赤という色彩を無意識の記憶のどこかに秘めていることは確かである。
 さて、吉田はこうして赤い世界を強制的に網膜に投影するのだが、そのことは新しい近くの可能性を示唆しているように思われる。つまり、これまでは光が網膜に到達するまでに、絵の具に光を反射させたり、色のついた光を眺めたりしていたのだが、この作品では直接網膜に働きかけることで成立する。つまり作品が外界に存在しそれを見るのではなく、網膜上にのみ存在することの可能性が示されている。すなわち、視神経に直接作用すれば、たとえ実際に見ていない光景でも脳内に実現することの可能性へと大きく一歩踏み出しているように思われるのである。
 それは我々が目を閉じてなおイメージを想起することができることと関係しているのであろう。ジェームス・タレルは神の光という非物質的な光を、物質的な光として目に見えるものにしようとしたが、吉田においては物質的な光から非物質的な光へと歩みを進めている。それはやがて直接神経へと働きかけるものとなるのであれば、物質性と非物質性の境界はあいまいとなるだろう。
 「寂光」のいかにも寂とした光景は、現実の光が作用しない非物質的な光を思わせるのである。こうした非物質性こそが芸術が真に求めるものであり、吉田は様々な光を吸いながら、だんだんと核心に迫ってきているように思われる。
清水敏男(美術評論家)

解説 「モノクロームの謎」 
 文化の歴史を「色」という点から眺めてみると、わたしたちの時代はひとつの転換期にあるように思う。今日では家庭用コンピュータや廉価なデジタルカメラでさえ、それが想定している「色の数」は億のオーダーであることは周知の事実である。この数は、色見本帳などを遥かに超えているわけだが、実用的でないわけではない。現行の演算速度による離散的な表現では、こうなってしまうということだけのことであり、これだけあれば、過去の名前のどんな微妙な色彩表現を複製するに充分ということになるであろう。今日行われている、超高精細のカメラやスキャナーを使って行われる絵画の複製には、「本物以上に本物」のような眩暈を感じることがある。
 この点で興味深いのは、モノクロームで画面を覆った絵画である。マレーヴィチなどがすぐさま思い出されるが、美術史には他にも多くの例があり、それらを時代順に取り上げた展覧会も開かれている。単色画面という形式だけを取り上げてジャンル化するのは無理であるが、そのような試みが多くの作家によって続けられてきたことだけは、確かである。吉田重信が今回展示している青い絵画も、モノクローム絵画の系譜においてみることができるであろう。青一色のなかに、白いアクリル地が浮き上がっているから、厳密には一色というわけではないが、現代美術としてはその青からクラインブルーを想いおこす人も多いと思う。
 どの色にも豊かな歴史があるが、ブルーには特に話題が多い。シャルトル大聖堂の青はあまりに有名であるが、フランスの紋章学者ミシェル・バストゥローは「青の歴史」の中で、この色がいかに異なる意味と役割を担ってきたかを描いている。特に西欧ではそれが美術だけでなく宗教や政治と密接にからみあってきたことを示して興味深い。
 さて、このようなモノクローム絵画には、デジタル化された「離散的色彩の時代」に、興味深い範例となる。たとえばこれをカメラで撮影して複製しようとすると、そう簡単には全面同じ色になってくれない。言うまでもなく、物体の色はそれが置かれた空間全体の影響を受けるので、機械は微妙な反射の差異を読み取り、もともと単色のはずの表面に、複数の「色」を認めてしまうからである。ゲーテ的色彩表現とニュートン的色彩表現のパラドクスと言ってもいいかもしれない。空間を包囲する光について明確な表現をとったのはJ.J.ギブソンだったが、私はモノクローム画面を見ると、どうしても光のフォークダンスについて考えてしまう。
 
 作家はこれまで、プリズムなどによって発生する虹を使った作品を発表してきたが、わたしはふと教会のなかで出会った光景を思い出した。たとえば日曜日のミサのときなど、ヨーロッパの教会を訪れた人なら誰しも経験があるだろう。ひんやりと薄暗い建物のなかを歩いてゆくと、足元にきれいな色の光が差している。ステンドグラスを通った光がつくるそれは、地上につかのま生まれた小さな虹のようである。そっと両手をだして、その光を掬ってみたくなる。その小さな光のパレットのなかに、すべての宗教画に使われた色彩が含まれていると想像したとき、わたしは軽い眩暈を感じた。
 「臨在の光」と言うタイトルの持つ宗教性が何に由来するものであるのかはわからないが、以上のような空間を包囲する光との関係においてみるとき、そこには見かけのシンプルさと相反して、色の深い謎が含まれているようにも思う。複数の異なる波長が含まれている対象をモノクロームと認識するのは、わたしたちの脳がそうしていいるからであるが、そうとわかっていても白い花は白く、青い画面は深い。
 ひとつの色のなかにすべての色が混在しているのならば、色はどこになるのか。
港千尋(写真家/多摩美術大学教授)

吉田重信プロフィール
1958年福島県いわき市生まれ。
主に光をテーマに作品を制作する現代美術家。1990年代初頭から太陽光線を利用したインスタレーションや映像作品を発表し続けている。光にまつわる科学的、形而上学な側面の両者を行き来しつつ、独自の作品によって「光」という存在の本質や、自然と人間の関わりを私たちに提示する。吉田の作品や思想は静かに呼吸するようにうつろいゆく光によって、観る者の想像力を豊かに喚起する。彼の作品は国内外の美術館のみならず、近年ではアートフェアなどにおいて大きな話題と高い評価を得ている。

1991年いわき市立美術館にて自然光の作品「Infinite Light」を発表後、水戸芸術館、宇都宮美術館、広島現代美術館、川村記念美術館、目黒区美術館、岩手県立美術館、東京都写真美術館、茨城県天心記念五浦美術館等にて発表。

1995年から自然光を使ったワークショップ「虹ヲアツメル・虹ノカンサツ」、「光の鳥」プロジェクトは大きな注目を浴びる。

また震災後の主な活動に「FUKUSHIMA ART プロジェクト」や「玄玄天」の中心隣、国内美術家の有志を集め、その後の福島を「伝える」「考える」発表の場として大きく取り上げられる。

近年では国内外のアートフェア(ART BASEL/ART FAIR TOKYO/DAEGU ART FAIR/ART FAIR ASIA FUKUOKA/ART TAIPEI)にも作品が紹介される。

パブリックアートやコレクションにはNTTドコモ株式会社(東京都墨田区)、CCGA現代グラフィックアートセンター(福島)、トルコ・日本基金文化センター(トルコ)、Grundy Art Gallery Blackpool(イギリス)、岩手県立美術館(岩手)、和歌山県立近代美術館(和歌山)、 Museum on the Seam(イスラエル)ほか国内外多数にコレクションされている。