異彩を放つ九州派〜それから〜 <博多阪急にて>

Kyushu-Ha exhibition

2020年10月13日(火)ー 10月18日(日)

1950年代より芸術の変革が叫ばれはじめ、国内でも多種多様な美術が登場し始めた時期。
東京の「ネオ・ダダ」、関西の「具体美術協会」などが台頭するなか、特に異彩を放った九州派です。
その活動期間は1957年から1968年と10年あまりですが、解散後も九州派に所属していた各メンバーたちは創作活動を続けました。
今回、メンバー所属時の作品から、その後の活動の作品まで展示販売いたします。

近年、世界の現代アートのマーケットは飛躍的に伸びています。
しかし、そうした世界の現況を知っている美術関係者は、ここ日本では数少ないのが現状です。
いったい私たちはこれからどのようにアートと関わっていくべきなのか。
その答えの一つが「九州派」だと確信しています。
世界基準から大きく逸れてしまった日本のアートシーンの中、アート本来のグローバル性を呼び戻す大きな可能性を「九州派」に感じています。

九州派は名前にしても、超ローカルなのですが、
グローバルな価値を築き上げることのできる要素を「九州派」はたくさん持ち合わせています。

九州派は素人集団と言う方もいます。
しかし、中途半端な美術教育を受けていないからこそアートが持つ「感動」を大きく感じさせてくれるのではないでしょうか。

九州派の各メンバーは解散後、それぞれに独自の生き方を貫き、作品も数多く生み出してきました。
アート本来の「自由」を謳歌し、年代ごとに様々な挑戦もし、作風も大きく変化してゆきました。

この展覧会は、九州派の紹介のみならず、
アートが持つ「革新性」を呼び覚ましてくれるでしょう。

ぜひ、博多阪急にてご確認ください。


櫻井共和
博多阪急で開催される『The Art Station』に九州派の作家たちの作品が展示される。
九州派は社会的現実から主題を見出すことを命題の一つとしていた。
そのことを思えば、美術鑑賞を主にする美術館よりも百貨店の催事場は、より九州派らしさを感じる。

7階には九州派に所属した作家が制作した作品と九州派に深くかかわった作家、森山安英氏と私(櫻井共和)の作品が加わる。
鑑賞することを主とする美術館と百貨店の違いは百貨店は「ものを売る」場である、ということだ。販売が主業であるため全て価格が付いている。(一部非売品もあるが)
価格が付いているということは、好きな作品があれば九州派の作家の作品でも買えるということだ。
8階は50人ほどの未来の巨匠の展示が予定されている。未来のポロックやバスキアの作品群が今まさにそこにあるかもしれない。
1950年の後半から1960年後半にかけて、ここ福岡を拠点として『東京を攻撃し続けた』 (この言葉は美術のことを語るには誤解を招く言い回しかと思うが、他方この言葉は実に「九州派的だ」とひとり悦に入っている。)前衛集団「九州派」の先輩方の作品と今を描き生きている「若者たち」の作品を観に来て欲しい。
そして好きな作品があったなら、コレクター気分になって購入して欲しい。
しかも今はまだ高値ではない。(間違っても「億」という数字が付いていはいない。)
そうした一つのことで、芸術は私達の生活に必要なものになるだろう。

           

「『九州派』-史実と演義の狭間で」 宮津大輔(アート・コレクター、横浜美術大学 学長)

 第二次世界大戦(1939 年~1945 年)は全てを破壊し尽くし、あらゆる既存の価値観を転覆させた。もちろん、文化・芸術もその埒外ではなかった。終戦後、世界中で巻き起こった「抽象表現主義」や「アンフォルメル」が我が国にも伝播し、敗戦で打ちひしがれた自らのアイデンティティを探るため、ジャンルを超えて数多くの「抽象・非形象」的な表現が生まれ出でたのである。しかし、高度成長期に向かいつつある中で、パフォーマンスは絵画へ、革新的表現は家元制度などへ収斂されていくことになる。一方で、読売アンデパンダン展(フランスのサロン・デ・アンデパンダンに倣った無審査、無償の自由出品形式の年次展覧会)会場は、「反芸術」思考を有する若手アーティストたちの熱気で満ち溢れていた。
 その頃、豪放磊落でありながら稀代の理論家であり、組織を束ねる力に優れた桜井孝身は、二科展の第九室(実験的表現に特化した作品に焦点を当てた部屋)に展示されたデビュー作が、岡本太郎に激賞されるほど鋭敏な前衛性を備えたオチ・オサムと運命の出会いを果たす。動と静あるいは太陽と月ともいえる二人の回りに個性豊かな星々が集い、やがてそれは「九州派」という銀河系を形づくるに至ったのである。「反中央」を掲げ既存画壇に異を唱え、三池争議では労働者と共闘。そして、画材代りにアスファルトをぶちまけたダイナミックな作品をものするなど、現在の官製による”脱東京””地方創生”が霞むほどに、彼らは生活者視点によって地域の社会的現実を捉えることに血道を上げていたのである。
 「大激論の末、芸術論争は酒の飲み比べで決着する」や「時に手が出る激しい内部抗争」ばかりが半ば伝説化されているが、彼らの真の姿は今、ここに在る作品が何よりも雄弁に物語っている。
 洒落たデパートのスペースに展示された自らの作品を、既に鬼籍に入ったメンバーは草場の陰から笑っているであろうか。否、デパートで店員として働き、催事場で楽焼に絵付けしながら、作品を制作していたのが「九州派」である。安っぽいマーケティング戦略や理想論に終始する芸術とは無縁の、そして流行とは程遠い表現の数々をその目でとくとご覧あれ。

「九州派−賽は投げられた」 岩渕貞哉(「美術⼿帖」総編集⻑)

 戦後⽇本の⼤きな前衛運動のなかで、現在もっとも評価のむずかしい(確定されていない)ものが、九州派だろう。それは、その活動最盛期の作品と記録の多くが残されていないことによるとされてきた。しかし、ほんとうにそうだろうか?
 これまで「九州派展」(福岡市美術館、1988年)や書籍『九州派⼤全』(2015年)などを通じて、九州派時代の研究は確実に進んできた。いっぽうで、芸術運動の総体としての九州派にとどまらない、個々のアーティストの作品(それは九州派以降の作品を含む)の全⾯的な開陳と批評から、九州派が持っていた核⼼的な可能性を遡⾏的に掘り出していくことがもとめられている。
 この展覧会は、その端緒となるものである。「歴史の空⽩でひたすら眠りこけている」(椹⽊野⾐)九州派が「世界」へ向けて、ついに覚醒するときがきた。そのとき、九州も⽇本の「地⽅」からアジアの「ハブ」へと変貌を遂げているだろう。

「異彩を放つ九州派 〜それから〜」 九州派事務局 尾花 基
1956年、経済白書が「もはや戦後ではない」と記し、日本は高度経済成長の端緒に着こうとしていた頃です。また同時期、全国では安保闘争の嵐が吹き荒れ、九州では三池争議が熾烈を極め、激動の60年代に向かっていました。

その頃、美術界でも大きな変革の流れが沸き起こっていました。フランスのミッシェル・タピエが来日し「アンフォルメル(非定形)」旋風を巻き起こし、東京の「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」、「ハイレッド・センター」、「名古屋のゼロ次元」、関西の「具体美術協会」など反芸術を掲げた芸術集団が日本各地で結成されていきます。
その中でもひときわ異彩を放ったのが1957年、福岡の地に突如出現した前衛美術集団「九州派」なのです。

桜井孝身とオチ・オサムの奇跡の出会いによって誕生した九州派は反芸術、反中央、反権威の思想のもと、ある意味過激とも言える活動を開始します。
1958年、東京都美術館で開かれていた出展料さえ払えば誰でも出せる「読売アンデパンダン展」に共同作品を出品。その中に製作途中で出たゴミをアスファルトで固め、ムシロでくるみ、縄で縛ったものがありました。そしてそれは同展の出品拒否第一号になります。
その後も東京の銀座画廊、南画廊などでグループ展、個展などを開き、東京地方へ殴り込みを続けるのです。

その活動の中でグループ内での意見の対立による脱会、再入会、別グループの立ち上げなど様々な動きが起こっていきます。活動自体もグループ発表から個人発表へと変化していきます。
1963年、百道海岸で行われた「英雄たちの大集会」という一大イベントを最後に九州派は実質終わったと評されることもあります。
しかし、九州派創始者のひとり桜井孝身は1965年に渡米後、サンフランシスコで少人数ではありますが、九州派展を開き九州派が続いていることを証明して見せています。彼自身にとって九州派は永遠だったのかもしれません。

1968年、機関紙「九州派」は8号をもって発刊を終えます。そして、この年のグループ展を最後に九州派は解体したことになっています。
しかし、解散宣言があったわけでもなく、九州派は続いていると思っている者、過去に葬った者、人それぞれだったのかもしれません。そんなことはどうでもいい。あの時代、九州派の洗礼を受けた画家たちはどこかにその名残りや影響を引きづりながら、また、それを乗り越えながら創作活動を続けていったのです。その生の終わる間際まで絵筆を取り続けた画家もいます。
所属期間の長短はあれども、あの熱気に一度でも包まれた血気盛んだった若き芸術家たちは一生その精神を忘れなかったはずです。

ここに展示されている作品はそんな彼らの生きた証でもあるのです。

九州派とアスファルト 越智順子

1955年の二科展、オチ・オサムの作品と出会った感動で、桜井孝身は1957年に九州派を結成します。
リーダー桜井孝身の求めは「人間の社会的現実から主題を見出すこと、前衛であれ」とする至上命令でした。

オチは当時勤務していた製版印刷の裏庭で素材を試す多くの実験を重ねました。ベニヤ板に流れたアスファルトに白い塗料を塗り日毎に焼けのような症状が現れ美しかったと目を輝かせました。素材の科学変化を試み、アスファルトの特徴を学び、作品作りに活かす試みをスタートします。

オチは九州派メンバーに色んな持論や可能性を語ります。「全てのモノが色になる、高価な絵の具等必要なく、煤煙、砂、馬糞紙、何でもつければ良い」等々。
一般的には、技術や発想を自分のオリジナルとして守る為に、作家同志はあまり心を許すような関係を作らない事が多い中、九州派はメンバー全員がこぞってアスファルトを用い、陶器や釘等の異物を付けた熱気ある作品を数多く生み出し、当時の前衛芸術の気運を高めて行きました。

「九州派が読売アンデパンダン展で注目を浴びたのはまさしくアスファルトであった。異様な迫力が生まれアスファルトが目立ったのは個性ではなく素材であった。個性なんかより新時代を告げるのは素材の方が適切で、強いのではないか、ゆえに九州派の出発の意味を込めるのである」
〜桜井孝身 パラダイスへの道より〜


【English】
” ‘Kyushu-ha’-Between historical facts and popularisation”
Daisuke Miyatsu (Art Collector, President of Yokohama University of Art and Design)

World War II (1939-1945) destroyed everything and overturned all existing values, of course, culture and art were also not out of the question. After the end of the war, “abstract expressionism” and “art informel” that wrapped up the world spread to Japan.

In order to search for one’s identity that had been crushed by the defeat, many “abstract and non-figurative” expression styles were born. However, as we move towards a period of rapid economic growth, performance converges into paintings and innovative expressions are constricted by institutions. On the other hand, the venue of the Yomiuri Independent Exhibition (an annual exhibition without jury nor reward that imitated the Salon des Indépendan in France) was filled with the enthusiasm and “anti-art” thoughts of young artists.

Around that time, Takami Sakurai, a broadminded and rare theorist who had excellent ability to unite organizations, had a fateful encounter with Ochi Osamu whose debut work was exhibited in room 9 of the Nika Exhibition (a room focusing on works specializing in experimental expression) which was highly praised by Taro Okamoto for its keen avant-garde character. Unique stars gathered around the two people, who could be called dynamic and static or the sun and the moon eventually forming a galaxy called the “Kyushu-ha.” He advocated for “the anti-centre” and made objections against the existing painting circles and joined the workers in the Miike dispute.

Then, they used asphalt instead of painting materials creating dynamic works almost overshadowing the current “de-Tokyo” and “regional revitalisation” by the government.
They became obsessed with capturing the social reality of the region from the ordinary citizen point of view.

The “after a heated discussion, the art debate is settled by drinking alcohol” and “sometimes violent internal conflict” are half-legendary, but their true form is the work that is here now, speaking eloquently above anything else.
Is the member who has already entered the roster of the dead laughing in the shadow of its grave about their work being exhibited in a stylish department store space?
No, it was the “Kyushu-ha” who worked as a clerk at a department store and created works while painting Raku ware at the exhibition hall.
Take a look at a number of expressions that are unrelated to cheap marketing strategies and idealistic art, and that are far from fashionable.

 ”KyushuーHa Point of no return”
Sadaya Iwabuchi (General Editor, “BIJUTSUTECYO”)
Among the major avant-garde movements in postwar Japan, the one that is currently the most difficult to evaluate is probably Kyushu-ha. It has been attributed to the lack of many of the works and records of their golden days but is that really the case?

Until now, research in the Kyushu-ha era has steadily progressed through the “Kyushu-ha Exhibition” (Fukuoka City Museum of Art, 1988) and the book “Kyushu-ha Taizen” (2015).

On the other hand, Kyushu-ha is not limited by the art movement as a whole, the full expression and criticism of the works of individual artists (including works after the Kyushu-ha) is also required to uncover the core possibilities of the Kyushu-ha.

This exhibition is the beginning of that. “I’m just sleeping in the void of history” (Noi Sawaragi), it’s time for the Kyushu-ha to finally awaken towards the “world”. At that time, Kyushu will also be transformed from a “region” in Japan to a “hub” in Asia.

Kyushu-ha secretariat Obana Motoi
In 1956, it was written on the economic white paper that it was “no longer postwar” and Japan was about to begin its rapid economic growth. At the same time, the storm of the campaign against the Japan-U.S. Security Treaty raged all over the country and the Miike dispute became fierce in Kyushu, leading to the turbulent 1960s.
At that time, there were big changes rising in the art world. Michel Tapié from France came to Japan and created an “art informel” sensation, “Neo-Dada Organizers” in Tokyo, “Hi-Red Center”, “Zero Jigen in Nagoya” and the “Gutai Art Group” in Kansai. Anti-art groups like these formed all over Japan. Among them, the avant-garde art group “Kyushu-ha” that suddenly appeared in Fukuoka in 1957 stood out.
The Kyushu-ha, which was formed from the miraculous encounter between Takami Sakurai and Osamu Ochi. They began their activities which could be said to be radical in a sense, based on ideas of anti-art, anti-central government and anti-authority.
In 1958, at the Tokyo Metropolitan Art Museum they exhibited their joint work at the “Yomiuri Independent Exhibition,” where anyone can exhibit as long as they pay the fee. In the middle of it there was something made by solidifying the garbage generated during the production with asphalt, wrapping it with straw mats, and tying it with a rope. That became the first work rejected to be exhibited at the exhibition.
After that, they held group exhibitions and solo exhibitions at Ginza Gallery and Minami Gallery in Tokyo and continued to hit the Tokyo region.
During their activity, there were various changes in the group such as withdrawal due to conflict of opinions, re-entry and establishment of other groups. The activities themselves also changed from group presentations to individual presentations.
It is sometimes said that the Kyushu-ha was virtually over at the end of a big event called “Eiyū-tachi no dai shūkai” held on the Momochi seaside in 1963.
However, Takami Sakurai, one of the founders of Kyushu-ha, opened a Kyushu-ha exhibition in San Francisco after moving to the United States in 1965, demonstrating that Kyushu-ha still continues. Maybe to himself Kyushu-ha was eternal.
In 1968, the bulletin “Kyushu-ha” ceased publication with the 8th issue and the Kyushu-ha dissolved at the end of that year’s group exhibition. However, it’s not like the dissolvement was announced, there might have been those you believed that Kyushu-ha continued and those who buried it in the past. But that doesn’t matter, at that time, the painters who were baptized by the Kyushu-ha continued their creative activities while dragging their remnants and influences and overcoming them. There are also painters who continued to create work until the end of their lives.
Despite the length of their affiliation, once wrapped up in that enthusiasm the passionate young artists would never forget that spirit for the rest of their lives.
The works exhibited here are also a living proof of them.

Kushu-ha and asphalt Junko Ochi
Takami Sakurai formed Kyushu-ha in 1957 after being deeply moved by the encounter with Osamu Ochi’s work at the 1955 Nika exhibition. The request of the leader Sakurai Takami was the supreme command “to select the subject from the reality of society, be avant-garde”.
Ochi conducted many experiments to test the materials in the backyard of printing plates where he also worked. He coated with white paint the asphalt that flowed through the plywood board, experiencing daily a burn like symptom that made his eyes sparkle. Experimenting with the science and changes of the material, learning the characteristics of asphalt, he started to make use of and experiment with it in his work.
Ochi talked with Kyushu members about various opinions and possibilities. “Everything can become colour you don’t need expensive paints, you can use soot, sand, cardboard, whatever you want.” In general, in order to protect the technique and ideas as their own original work, artists often do not allow a sharing comrade relationship, but in Kyushu-ha all the members used asphalt, pottery, nails, etc. They created a lot of enthusiastic works with unusual materials and gathered momentum for the avant-garde art at that time.
“It was the asphalt that attracted attention to Kyushu-ha at the Yomiuri Independent Exhibition. It was the material, not the individuality, that created the extraordinary impact and made the asphalt stand out. Isn’t the material more appropriate and stronger than individuality to signal the new era? Therefore included in the meaning of Kyushu-ha’s departure.” ~ Takami Sakurai from the road to paradise ~

Translated by: Sara Melo


【Chinese】
「『九州派』-在歷史事實和行為之間」 宮津大輔(美術收藏家,橫濱美術大學校長)
第二次世界大戰(1939年~1945年)摧毀了一切並改變了既有價值觀。當然,在文化藝術上也 不例外。戰爭結束後,世界各地掘起的「抽象表現主義」及「不定形藝術」對也影響到了日 本。為了尋找因為戰敗而灰心喪志的自我,許多跨領域的「抽象•非形象」的表現方式因此蘊 育而生。
但是,在持續邁向快速成長期時,整體作品轉向繪畫,而創新表現則轉向家族體系。另一方面 ,讀賣新聞獨立展(仿法國沙龍獨立展,不經官方審查、強調自由精神的免費年度展覽)的會 場,則充滿「反藝術」思考年輕藝術家的熱情。
在那時,擁有出色組織能力、充滿活力但鮮為人知的理論家櫻井孝身,命中注定地遇見了 Ochi Osamu。Ochi Osamu的出道作品具有敏銳的前衛感,深受岡本太郎讚賞。一動一靜, 或說是如同太陽和月亮的兩人,身邊聚集許多豐富個性的新星,「九州派」的銀河系因此誕 生。
提出「反中央」、對現有畫壇提出異議,在三池爭議時和勞工一起抗爭。然後,運用瀝青取代 現有素材,在校園中散佈創作動態作品。比起現有行政「脫東京」「活化地方」含糊不清的說 法,他們用生活者的視角補捉地方現實,用這樣的方式殺出一條血路。
總是有像「有關藝術爭論的激烈爭辯,最後還是靠拼酒來決定」或是「有時會有像吵架般的內 部鬥爭」等傳言流傳,但事實勝於雄辯,透過留下的作品,可以看見他們真正的姿態。
不知道那些已經去世的藝術家們,是否笑著看自己的作品在時尚百貨公司中展示。不,其實還 是有在展場一邊當店員,一邊在樂燒陶器上創作的「九州派」成員。廉價的行銷策略及自始至 終理想化的藝術,還有毫無關聯的流行,領域範疇相差極大的表現方式都將呈現在眼前,值得 慢慢欣賞。

勢在必行 岩渕貞哉(「美術⼿帖」總編集⻑)
在戰後日本的大型前衛運動中,目前最難評估(還未確認)的運動大概是九州派了。 大家的說他們在活動最鼎盛的時期的記錄不多。但真的是這樣嗎? 迄今為止,從「九州派展」(福岡市立美術館,1988年)和『九州派⼤全』2015年)九州派時代的研究無疑已確實經取得了進展。 另一方面,作為藝術運動總體不限於九州派的形式,個別藝術家的作品(包括九州派解散以後的作品)也將被全面的開陳評論,追溯九州派系的可能性與核心潛力已是必需。 這次的展覧將會是開端。(九州派)「只是在歷史空白的氛圍中稍睡一下而已」(椹⽊野⾐) 現在正是九州派面向「世界」醒來的時候了。九州派將從昔日九洲地區轉變為亞洲的「重要角色」。

「大放異彩的九州派 ~續篇~」九州派事務局 尾花 基
1956年,經濟白皮書中指出「不再是戰後」,此時日本經濟正開始快速成長。與此同時,安保鬥 爭的影響擴及全國,九州的三池爭議越演越烈,走向動盪不安的60年代。
此時,美術界開啟了重大變革的潮流。法國的Michel Tapié來日本掀起了「不定形」旋風,東京 的「新達達主義組織」、「High Red Center」、「名古屋的零次元」及關西的「具體美術協會」 等提倡反藝術的藝文團體在各地組成。 其中最為耀眼的,就是於1957年在福岡陡然興起的前衛美術團體「九州派」。
因為櫻井孝身和Osamu Ochi奇跡般的相遇而誕生的九州派,是反藝術、反中央、反權威思想的源 頭,這也代表激進活動的開始。 1958年,在東京美術館舉辦,只要繳展出費就能展出的「獨賣獨立展」中,發表了共同作品。其 中製作時產生的垃圾,有用瀝青凝固、用草蓆包住、或用繩子綁住。然而這也是同展中被拒絕的 第一號作品。 在此之後,也在東京的銀座畫廊、南畫廊等舉辦團體展、個展等,持續衝擊東京地方。
在此活動中,因為團體內的意見對立而退出、再入會、成立別的組織團體等,各式各樣的行動開 始產生。活動也從團體發表轉變為個人發表。
1963年,在百岸海道舉行,名為「英雄們大集會」的大型活動,最後評判九州派
實質已終結。 但是,九州派創始者之一的櫻井孝身於1965年前往美國後,雖然只有少數人,但在舊金山舉辦了 九州派展,是九州派依舊持續的證明。或許對他而言,九州派是永遠的存在。
1968年,機關刊物「九州派」8號發行終止,並以同年舉辦最後團體展,九州派最終解散。 但是,並不是因為有解散宣言,有人認為九州派依舊持續存在、有人只是想把過去埋藏,可能每 個人都有不同想法。但怎麼想都無所謂,那個時代,只要受過九州派洗禮的畫家們,拖著這些痕 跡和影響到任何地方,就又會有超越這些的創作活動在持續下去,也有在生死邊緣之際,又拿起 畫筆的畫家。 不論所屬期間的長短,只要感受過這樣熱情的血氣方剛的年輕畫家們,這樣的精神一定一生難 忘。