「九州派をつくったもの、九州派からうまれたもの」桜井孝身・櫻井共和展

The man who created Kyushu-Ha,the man who was born from Kyushu-Ha

2022年10月8日(土)- 10月19日(水)

1950年代から福岡を拠点とし⽇本美術の⼤きな潮流をつくった前衛芸術家グループ「九州派」の代表メンバーとして活動したアーティスト桜井孝⾝(1928年〜2016年)と、⽗である孝⾝とともに渡⽶し幼少時から絵筆に囲まれて過ごしアーティストとして活動する息⼦、櫻井共和の⼆⼈展。

1950年代、⽇本の前衛グループは、コミュニズムが考えていた社会主義的な前衛と20世紀初頭のモダニストが考えていた芸術的前衛とがあり、殆どの前衛グループは芸術の前衛であったのに対し、九州派は社会主義的前衛グループの代表の⼀つでした。その思想的⽀柱であったのが桜井孝⾝です。孝⾝は九州派解散後はアメリカに流れ、ビートニックやヒッピー運動に⾝をおきながら、ハイカルチャーやサブカルチャーの区別なく、⽣きるということが芸術であるという信念の元、⽣活者としての芸術を追い求めました。
共和は、幼少期より絵画の才能に目を付けた九州派の主導者である父に絵画指導を受け、孝身を慕うメンバーたちに囲まれる独特な環境で育ちます。16歳で孝身とともに渡米し、ヒッピー文化を背景に、ビートニクの詩人であるアレン・ギンズバーグとの出会いや、その他の生活体験など、多感な時期に大きな影響を受けながら美術の道へ進み、渡仏を経て帰国後は九州を中心に作品の発表を続けています。

会期|2022年10月8日(土)- 10月19日(水)
時間|11:00~20:00 ※最終日のみ、18時閉場
会場|銀座 蔦屋書店 GINZA ATRIUM(イベントスペース)
入場|無料
主催|銀座 蔦屋書店
協力|Gallery MORYTA
お問い合わせ|03-3575-7755(営業時間内)/info.ginza@ccc.co.jp

美術手帖 ➡️︎ Detail

Picon 現代美術の在り方を考える。桜井孝身・櫻井共和「九州派をつくったもの、九州派からうまれたもの」➡️︎ Detail

excite news 日本の戦後美術史にドラマティックな足跡を残した桜井孝身と、息子櫻井共和の二人展 ➡️︎ Detail



このたび銀座 蔦屋書店では、1950年代から福岡を拠点とし日本美術の大きな潮流をつくった前衛芸術家グループ「九州派」の代表メンバーとして活動したアーティスト桜井孝身(1928年〜2016年)と、父である孝身とともに渡米し幼少時 から絵筆に囲まれて過ごしアーティストとして活動する息子、櫻井共和の二人展を開催します。

1950年代、日本の前衛グループは、コミュニズムが考えていた社会主義的な前衛と20世紀初頭のモダニストが考えていた芸術的前衛とがあり、殆どの前衛グループは芸術の前衛であったのに対し、九州派は社会主義的前衛グループの代表の一つでした。
そうした思想的支柱であったのが間違いなく桜井孝身です。
「九州派」は哲学者でもある桜井孝身の魅力により人が集まり、彼の求心力により組織が束ねられたと言っても過言ではないでしょう。
孝身は九州派解散後はアメリカに行き、ビートニックやヒッピー運動に身をおきながら、ハイカルチャーやサブカルチャーの区別なく、生きるということが芸術であるという信念の元、生活者としての芸術を追い求めました。
そんな確固たる信念のもと、孝身の海外生活はアメリカ、フランスに渡り約40年に及びます。

そんな破天荒な人生を送る父孝身とともに若き日の息子櫻井共和は歩みをともにします。
傑出した歴史の改革者でもある父孝身の背中を追うだけではなく、時には反面教師として育ちます。
当時孝身の元には国内外の著名な人々がほぼ毎日訪れてきたそうです。そんなエネルギッシュな孝身に翻弄されながらも、自己な確立に早くから気づかされるなど、ある意味絵描きとしての有り余る英才教育を受けたのも事実です。
孝身や「九州派」面々からいち早くその才能に一目を置かれていた共和は、まだ多くの日本人にとって海外を知らぬ時代、16才で父とともにアメリカに飛び出します。特異な父の周りに群がる人間たちや場に翻弄される中で自己の確立を急かされたのです。そうした環境が、絵描きとしての有り余る英才教育となったことも事実です。「前衛は常に新しい絵画を確立しなければならない。」当時の日本における絵画の風潮とは真逆な芸術理論を一貫として貫いてきました。レイヤーを手繰り寄せ、プュアアートを唱えます。日本人の誰よりも早くから現在のアートを見越していたのも共和でした。

Ginza Tsutaya is pleased to present a two-person exhibition featuring artist Takami Sakurai (1928-2016), a representative member of the Fukuoka-based avant-garde art group “Kyushu-Ha,” which set a major trend in Japanese art in the 1950s, and his son Tomokazu, who spent his childhood surrounded by paintbrushes in the United States with his father Takami.

In the 1950s, Japanese avant-garde groups were divided between the socialist avant-garde as conceived by communism and the artistic avant-garde as conceived by the modernists of the early 20th century. Most Japanese avant-garde groups were artistic avant-garde. Kyushu-Ha, however, was one of the representatives of the socialist avant-garde.
The ideological pillar of such a group was undoubtedly Takami Sakurai.It is no exaggeration to say that “Kyushu-Ha” was brought together by the charm of Takami Sakurai, who is also a philosopher, and that the organization was held together by his centripetal force.After the dissolution of Kyushu-ha, Takami went to the U.S., where he spent time in the beatnik and hippie movements, pursuing art as a sei-katsu-sha artist based on the belief that living is art, without distinction between high culture and subculture.
With such firm beliefs, Takayuki’s life abroad spanned about 40 years in the U.S. and France.

The young son, Tomokazu Sakurai, shares the same path with his father, Takami, who leads such a maverick life.
He grew up not only following the back of his father, an outstanding historical reformer, but also sometimes as a role model.
At that time, he was visited almost every day by prominent people from Japan and abroad. While being tossed around by such an energetic Takamimi, Tomokazu was also made aware of his own self-establishment early on, and in a sense, it is a fact that he received a gifted education as a painter.At the age of 16, Tomokazu left for the United States with his father at a time when many Japanese had never been abroad. He was hurried to establish himself at the mercy of the people and places that flocked around his peculiar father. It is also true that this environment provided him with an abundance of education as a gifted painter. The avant-garde must always establish a new style of painting. He consistently adhered to an artistic theory that was the exact opposite of the prevailing trend in painting in Japan at the time. He has been consistently following an artistic theory that is in direct opposition to the painting trend in Japan at that time. It was Tmokazu who anticipated today’s art earlier than any other Japanese artist.

银座筒屋(Ginza Tsutaya)荣幸地推出艺术家樱井孝身(1928-2016 年)的双人展,他是福冈前卫艺术团体 “九州派”的代表成员,该团体在 20世纪1950年代引领了日本艺术的主要潮流;他的儿子友和与父亲樱井孝美一起在美国度过了与画笔为伴的童年时光。

1950 年代,日本前卫团体分为共产主义构想的社会主义前卫和20世纪初现代派构想的艺术前卫。大多数日本前卫团体都是艺术前卫。而九州派则是社会主义先锋派的代表之一。
可以毫不夸张地说,“九州派”是由身兼哲学家的樱井孝身的魅力凝聚起来的,是由他的向心力将组织维系在一起的、 九州派解散后,孝身去了美国,在那里参加了垮掉派和嬉皮士运动,以 “生活即艺术 ”的信念追求艺术,不分高雅文化和亚文化。
抱着这样的坚定信念,孝身行在美国和法国度过了约40年的海外生活。

年轻的儿子樱井共和与他的父亲考身走着相同的道路,过着特立独行的生活。
他不仅追随父亲这位杰出的历史改革者的背影长大,有时还以父亲为榜样。
当时,几乎每天都有日本国内外的知名人士来拜访他。16 岁时,共和随父亲去了美国,当时许多日本人从未出过国。他匆匆忙忙地在他奇特的父亲周围蜂拥而至的人们和地方安顿下来。这种环境也确实为他作为天才画家提供了丰富的教育。先锋派必须始终建立一种新的绘画风格。他一贯坚持的艺术理论与当时日本绘画的流行趋势完全相反。他始终坚持与当时日本绘画潮流完全相反的艺术理论。共和比任何其他日本艺术家都更早地预见到了今天的艺术。