Junnosuke Miyazaki

【Japanese】
福岡県早良郡脇山村(現福岡市)に生まれる。
県立中学修猷館を経て、京都学芸大学(現京都教育大学)特修美術科で彫塑を学ぶ。昭和31年から北九州市に居住し、県立小倉聾学校等で美術教員を務め、同時に福岡の前衛美術集団「九州派」に参加。九州派解散以降も、芸術を生活者の視点でとらえるという思想を誠実に展開させ、同41年の初個展以降は、くすのきを主素材とした木彫作品を制作する。同57年福岡県文化会館で大規模な個展を開く。
没後、平成10年福岡県立美術館で初回顧展が開催された。
福岡県立美術館 この作家の作品一覧 略歴参照
宮崎凖之助は今や伝説となった「英雄たちの大集会」でのパフォーマンスで知られます。
何をして良いのか分からなかったという宮崎はスコップを持ちこみ、会場となった百道海岸にてただひたすらに砂浜に穴を掘る作業をくり返しました。
ちょうど引き潮時でもあり、宮崎の掘る横から潮が穴を埋めていきます。
宮崎の直向きな行為が次から次へと無になっていくという象徴的なハプニングが参加したものたちに強いインパクトを与えました。
社会に根ざした生活者という表現と美術作家として革新者を目指す行為とが重なって写ったのかもしれません。
同様に宮崎は「木」と対峙し、ただひたすら木を掘り続けました。
電動器具などは一切使わず、ノミだけで掘り続けます。
宮崎の代表作の一つでもある「玉の作品」も同じようにノミで何の変哲も無いシンプルなカタチが生まれてくるわけです。
創造者である自身の技術などを排除し、見る人がただ作品に触れたり、座ったりすることを望んでいました。
そこには作る者と見るものとの境はなく、社会の中に芸術を一体化させようとする「九州派」の精神を具現化させたようでした。
大雑把にいうなら九州ではじめにアンフォルメルの波をかぶり、やみくもに泳がされたのが連中(九州派のメンバー)だったといえまいか。
自らの運動を論理化するのは不得手だったが自己流の泳法を編まねばならなかった。
これは戦後の一つの通過点である。
なにをしてもいい、なにをしてよいかわからない、この始末のわるい場所がぼくの二番目の学校といえそうだ。
宮崎凖之助「尻馬の弁」
『九州派展−反芸術プロジェクト』(図録)、1988年福岡市美術館 『九州派大全』に再録
「…幾シリーズかの制作を通過して、さて、ぼくは何処へ行こうとするのか。
アーティストであれアルチザンであれ、ぼくの命運は定まっているだろうが、ただの人間の地平だけは喪いたくないと思っている。
そんな野暮ったれの営為に、もしかして僕らの時代に根源に迫るものがあり得るとすれば幸いと言うべきであろう。」宮崎準之助
「1970-九州・可能性への意思展」図録より
「ぼくらの裡に無限定の拡がりをもって、浸透している現代社会の不毛と不産の状況に洞な空間の実体としての外在化とその反復にょる複数化で対応しているのが、ぼくの仕事です。その空虚空間の無限連続性が、数・量の決定を不明にします。だから作品は、複数化しながら、なお部分的なのです。」
1930 現 福岡市早良区脇山に生まれる。
1952 京都学芸大学(現・京都教育大学) 特修美術科に入学。 彫塑を専攻する。
1956 福岡県立小倉聾学校の美術教員となり (73年まで)、 以後北九州市に在住。
1957 第2回九州派街頭展で九州派の活動を知る。九州派に参加し68年頃まで反芸術運動に携わる。
1962 英雄たちの大集会 (百道海水浴場・福岡市)にて砂浜で黙々と穴を掘るハプニングを行う。
1966 木だけを使った作品による初個展 (スルガ台画廊・東京)を開催。
1980 美術教員を退職し、以後創作に専念する。
1982 個展 (福岡県文化会館)。
1986 宮崎準之助展「くすぐるま」 (INAXギャラリー2・東京)
1988 「九州派展-反芸術プロジェクト」 (福岡市美術館)
1989 北九州市営住宅エントランスホールのレリーフ完成後、胃ガンのため死去。 享年59歳。
1998 初回顧展「宮崎準之助-くすだまとくすぐるまの庭から」 (福岡県立美術館)開催。
▪️ 個展
1966 スルガ台画廊初個展
1968 スルガ台画廊個展
1982 福岡県文化会館個展
1986 「くすぐるま」 INAXギャラリー
1998 特別企画展「くすだまとくすぐるまの庭から 福岡県立美術館
▪️ グループ展
1961 九州派展 銀座画廊
1962 英雄たちの大集会 海岸に穴を掘り続けるパフォーマンス
1965 九州派小品展 福岡ビル
1965 九州派展 福岡県文化会館
1967 第1回九州・現代美術の動向展 福岡市民会館
1967 横田健三・宮崎準之助2人展 信濃橋画廊/大阪
1969 第3回九州・現代美術の動向展 福岡市民会館
1970 可能性の意思展 北九州市立八幡美術館
1971 第5回九州・現代美術の動向展 福岡市民会館
1972 可能性の意思展 北九州市立八幡美術館
1974 九州現代美術「幻想と情念」展 福岡県文化会館
1975 鉛筆における表現展 東亜画廊
1976 アーティスト・ユニオン・シンポジウム 東京都美術館
1978 今日の美術展 北九州市立美術館
1978 現代九州彫刻展 石橋文化センター
1980 福岡現代彫刻作家展 福岡市立美術館
1988 九州派展ー反芸術プロジェクト 福岡市美術館
【English】
Jutaro MIYAZAKI was born in Wakiyama Village (now Fukuoka City) in Sawara-gun, Fukuoka Prefecture. After going through the prefectural junior high school Shuyukan, he studied sculpture at the special art department of Kyoto Gakugei University (now Kyoto University of Education).
He has lived in Kitakyushu since 1956. He was an art teacher at the prefectural Ogura Deaf School and at the same time participated in the avant-garde art group “Kyushu School” in Fukuoka. Even after the dissolution of Kyushu-Ha, he faithfully developed the idea of capturing art from the perspective of consumers.
Since the first solo exhibition in 1966, he has been producing wood carvings made mainly of Kusunoki. He opened a large-scale solo exhibition at the Fukuoka Prefectural Cultural Center in 1982. After his death, the first exhibition was held at the Fukuoka Prefectural Museum of Art in 1998.
1930 Born in Wakiyama, Sawara-ku, Fukuoka City, Fukuoka Prefecture.
1952 Entered Kyoto University of Arts and Science (now Kyoto University of Education), specializing in fine arts. Majored in sculpture.
1956 Becomes an art teacher at Fukuoka Prefectural Kokura School for the Deaf (until 1973) and thereafter lived in Kitakyushu City.
1957 Learned about the activities of the Kyushu-Ha at the 2nd Kyushu-Ha street exhibition. Immediately after that, he joined the Kyushu-Ha and was involved in the anti-art movement until around 1968.
1962 Participated in the “Gathering of Heroes” (Momochi Beach, Fukuoka City), where he dug silently holes in the sand.
1966 First solo exhibition of works using only wood (Surugadai Gallery, Tokyo).
1980 Retired from teaching art and devoted himself to creating art. 1982 Solo exhibition (Fukuoka Prefectural Cultural Center).
1986 Miyazaki Junnosuke Exhibition “Kusuruma” (INAX Gallery 2, Tokyo) 1988 “Kyushu-Ha Exhibition – Anti-Art Project” (Fukuoka City Museum of Art)
1989 Died of stomach cancer after the completion of the relief at the entrance hall of Kitakyushu Municipal Housing. He was 59 years old.
1998 First retrospective exhibition “Junnosuke Miyazaki: From the Garden of Kusudama and Kusuguruma” (Fukuoka Prefectural Museum of Art, Fukuoka).
▪️ Solo exhibition
1966 First exhibition at Surugadai Gallery
1982 Solo exhibition at Fukuoka Prefectural Cultural Center
1986 “Tickle Bear” INAX Gallery
1998 Special Exhibition “From Kusudama & Tickleman’s Garden”
Fukuoka Prefectural Museum of Art
▪️ Group exhibition
1961 Kyushu-Ha Exhibition Ginza Gallery
1962 A great gathering of heroes Performance to continue digging holes on the coast
1965 Kyushu-Ha Piece Exhibition Fukuoka Building
1965 Kyushu-Ha Exhibition Fukuoka Prefectural Cultural Center
1967 1st Kyushu / Contemporary Art Trend Exhibition Fukuoka Civic Center
1967 Kenzo Yokota / Junnosuke Miyazaki two-person exhibition Shinanobashi Gallery / Osaka
1969 3rd Kyushu Contemporary Art Trend Exhibition Fukuoka Civic Center
1970 Potential Intention Exhibition Kitakyushu City Yawata Museum of Art
1971 5th Kyushu Contemporary Art Trend Exhibition Fukuoka Civic Center
1972 Intention of Possibility Exhibition Kitakyushu City Yawata Museum of Art
1974 Kyushu Contemporary Art “Fantasy and Passion” Exhibition Fukuoka Prefecture Cultural Center
1975 Pencil Expression Exhibition Toa Gallery
1976 Artist Union Symposium Tokyo Metropolitan Museum of Art
1978 Today’s Art Exhibition Kitakyushu City Museum of Art
1978 Contemporary Kyushu Sculpture Exhibition Ishibashi Cultural Center
1980 Fukuoka Contemporary Sculptor Exhibition Fukuoka City Museum of Art
1988 Kyushu-Ha Exhibition-Anti-Art Project Fukuoka City Museum of Art
<美術館コレクション Museum collection>
福岡県立美術館 →宮崎準之助収蔵作品

「半空のブロック」
樟
各177x181x113mm 1967

「昭和初期ー塾」
樟 タブ
各1810x1545x553mm 1974

「木の球による提示」
杉 松
最大径490mm 1966

「ギッコン車」
樟 桜
最大径2012x887x1690mm 1973
【Text Japanese】
宮崎準之助「制作なかばに」機関誌「九州派」 ➡️︎ Detail
宮崎準之助 生前1982の覚え書き再録 ➡️︎ Detail
福岡県立美術館 生活者の思想ー宮崎準之助の庭から ➡️︎ Detail
桜井考身 機関誌「九州派」7号 ➡️︎ Detail
【Article Japanese】
美術手帖 Apr.1999 ➡️︎ Detail
西日本新聞 26Th Sep.1988 文化欄 前衛たちの軌跡 九州派から四半世紀 ➡️︎ Detail
毎日新聞 23Th.Oct.1998 ➡️︎ Detail
【Text English】
Close Up From the Permanent exhibition at the Fukuoka Prefectural Art Museum ➡️︎ Detail
【Article English】
Bijutsutecho April 1999 ➡️︎ Detail
Nishinippon Shinbun Trajectory of the Avant-gardeSeptember 26 – October 8, 1988 ➡️︎ Detail
宮崎凖之助は下記に記す1962年百道海岸で行われた「英雄たちの大集会」でのパフォーマンスで今でも多くの人たちに知れ渡っている。
「宮崎はスコップ (土を掘る道具)を持って参加した。博多の十一月の午後七時はもう真暗だった。 それに雨も降っている。あとから思えば、始まった七時ごろから干潮になったのだから、だんだん砂浜は広くなって行った。室内でそれぞれの参加が始まると同時に、宮崎は独り浜に出て穴を掘り出した。背丈ぐらい掘ると潮水が湧くので、次の穴掘りに移らざるを得ないのだ。その「得ない状態」が次から次へと穴を掘らせ、十二時ごろには七つの長さにして十二 米ぐらいの穴を掘っていた。暗い穴底で水に浸って懸命に掘っている。波の音だけの誰もいない砂浜。掘り上げた砂は、高く側面に投げだされ瞬間鋭角をつくるが、すぐに雨にうたれ て鈍い角になってしまう。
果てしなく単調な作業が続く。それを見ていると穴の暗い底部から、この集会の強行軍的スケジュールの結果として、多くの同志を失った過去が湧きあがってくるのだった。グループ結成以来幾多の友が参加し、幾多の友が去っていった。歴史を積む程に離合の摩擦は 激しく、ちょっとした食い違いの意見すらもが、思想性を含んだ大議論と化し、渡り鳥がシベリアへ去ってゆくように、体質的に、それ等の人々は精神の異国へと逃がれていった。
「馬鹿気たことをやると、画家として一生が台なしになる。まして展覧会でもない集会ごときに命がけでやるなぞ」の言葉だけを残して去る礎石の一つ、一つは、いまは空となり、その跡は悲しみの穴、あるいは絶望の空洞となって重ねられてゆく。これのみが運動の輝かしい成果であるのかもしれない。そんな感傷にはかかわりなく、太古から繰り返し繰り返 し訪れる波に、その空洞は僅かばかり残り、少ない仲間のみが穴の意味を知らされる博多の「コノ夜」、なおも、この僅かなあと何人が、このカラッポの絶望の美しい穴を構築してゆくだろうか。芸術運動の意味は判らぬが絵画とは、所詮そんなムダ骨おったマイナスの穴でなければ、築くことの出来ない城なのではなかろうか。とすれば、なんと「ワビシイ」城寨であることだろう。このワビシイ穴を宮崎は深夜、現実に掘っているのだ。午前一時頃になると、満潮になったのか水平線が妊婦の腹のようにふくらんで、徐々に穴を浸蝕し始めた。それは、なんと緩慢に見えて迅速なんだろう。潮は完全に穴を沈め、巨大な波が宮崎の 全身を洗う。確かに海は母であるのだろう。だが山の上から、即ち安全な場所から、紺碧の波が緑の半島や白い砂浜をセンチメンタルに抱くときのみ、人々は海を母と呼んだのに違いない。だがこの薄ら寒い、荒れに荒れる玄界灘の波に、頭から洗われて穴を掘る宮崎にとって、それは「母たり得るだろうか」母だとすれば、まさしく性の悪い残酷な継母の様相だ。死を賭けた宮崎の行為は黒い悪魔に犯される少女みたいに愛難的で、海の牙は容謝なく鋭く宮崎をさいなんだ。
そういえば穴とは永遠に攻撃を受けるもの、痛めつけられる肌白い少女「抑圧された永遠 の階級」なのかもしれぬ。「ヘコミ過ぎて孔となった」悲しい母性のみが背後の見透せる者の資格を得るのだ。
現実の宮崎は、海辺の砂浜に死を賭け、掘る行為によって凹の城を空洞で積み重ねてゆく。これこそが、マイナスの城と呼ぶにふさわしいメスの芸術なのかもしれない。この空洞のみが死を貧婪に喰い、肥えた時間の城と化すことが出来るのかもしれない。宮崎は、その優しさに生まれ、優しさに喰われて死んでゆくのだろう。
Gallery MORYTA exhibition 九州派 2019 website
Gallery MORYTA exhibition 九州派 2018 website
【About Kyushu-Ha】
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