池田満寿夫 展 – 外ト内ト –

Masuo Ikeda exhibition

2004年2月22日(日) - 3月14日(日)

■ DMテキスト
「私は意識的に自分のスタイルを次々に壊し、変貌していくことに情熱を持った。その姿勢は死ぬまで続くだろう」<池田満寿夫>

自己破壊と創造の繰り返しのなかで、極めて多彩に、最期まで全力で生きた池田満寿夫。70年代に制作された「七つの大罪」シリーズ、「彼女の会話」「笑って」などの代表作を中心に発表いたします。

■ 池田満寿夫プロフィール
版画はもとより、絵画、彫刻、陶芸、文学、書、映画など幅広い分野にそのほとばしる才能をいかんなく発揮した池田満寿夫(1934-1997)。
 
彼は、旧満州国(現・中国東北部)に生まれ、終戦後は両親の故郷、長野に移り住みました。
上京後、画家・瑛九の勧めで色彩銅版画を始め、1960年、東京国際版画ビエンナーレ展で文部大臣賞を受賞、シンデレラボーイとして一躍脚光を浴び、1965年にニューヨーク近代美術館で個展を開催、翌年にはヴェネツィア・ビエンナーレ展で国際版画大賞に輝くなど、国際的にも高い評価を得ました。
 
また、文学にも傾倒し、1977年、小説『エーゲ海に捧ぐ』によって芥川賞を受賞、さらに同作品を自ら映画化、映画監督としてもデビューを果たしました。その後もマルチ・アーティストとして多様な挑戦を続けました。「芸術に進歩などない、変化があるだけだ」という言葉のとおり、つぎつぎに新たな表現世界を開拓していきました。

1934 旧満州奉天市に生まれる
1951 第1回全日本学生油絵コンクール(毎日新聞社主催)で、油彩「橋のある風景」<アトリエ賞>
1955 靉嘔、眞鍋博、堀内康司とグループ「実在者」を結成
1957 第1回 東京国際版画ビエンナーレ展「入選」
1960 第2回 東京国際版画ビエンナーレ展「文部大臣賞」
1961 第2回 パリ・ビエンナーレ展「優秀賞」
1962 第3回 東京国際版画ビエンナーレ展「東京都知事賞」
1964 第4回 東京国際版画ビエンナーレ展「国立近代美術館賞」
1965 渡米、ニューヨーク近代美術館で日本人として最初の個展(東京国際版画ビエンナーレ展の審査員を務めたウィリアム・S・リーバーマンが企画)
1965 第6回リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展「入賞」
1966 第33回ヴェネチア・ビエンナーレ展「版画部門大賞」(日本人として棟方志功以来2人目)
1966 第1回クラクフ国際版画ビエンナーレ展「入賞」
1967 第17回芸術選奨「文部大臣賞」
1969 第8回リュブリアナ国際版画展 ユーゴスラビア科学芸術「アカデミー賞」
1970 第3回クラコウ国際版画ビエンナーレ展「買上賞」シレジアン美術館
1970 第17回アメリカ国内版画展「入賞」(ブルックリン美術館)
1971 米国議会図書館主催第22回版画展「買上賞」
1972 アントワープ国際文化書籍展「金賞」
1977 小説「エーゲ海に捧ぐ」第77回「芥川賞」
1981 『池田満寿夫25年の歩み展』(大阪・ナビオギャラリー)
1984 日本橋高島屋にて初の陶芸展開催。以後大阪、横浜、玉川各店にて開催
1986 タペストリー・コラージュ「天の岩戸」が国立国会図書館新館に設置
1989 ブロンズモニュメント作品「聖者」(高さ7m ) を岐阜県北方町に設置
1991 『池田満寿夫のライフアート展』(日本橋・高島屋)
1991 西宮市 創造の丘ナシオンにブロンズモニュメント「動と静」「天馬」「ラ・メール」設置
1992 『池田満寿夫のパビリオン展』(大阪・なんば高島屋)
1993 『池田満寿夫アートワーク展』(名古屋・松坂屋美術館)
1993 『池田満寿夫作陶10周年-古代幻視と富士百景展』(日本橋・高島屋)
1995 陶版による「Fuji 100展」開催
1995 『般若心経の世界展』(京都・大丸ミュージアム他、巡回展)
1995 第2回フジサンケイ・ビエンナーレ現代国際彫刻展「優秀賞」
1995 京都市、清水寺で、阪神・淡路大震災の犠牲者鎮魂のため、縦4m×横7mの和紙に「般若心経」の経文を揮毫
1996 『池田満寿夫展』(長野・長野県信濃美術館)
1996 長野市オリンピック メインスタジアム前にシンボルモニュメント 「オリンピック讃歌」設置
1997 熱海市海光町の自宅にて逝去 享年63歳
1997 長野県松代町に池田満寿夫美術館一般公開。



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