夭折の画家「篠原道生 遺作展」

Michio Shinohara exhibition

1994年12月 3日(土) - 12月25日(日)

■ 篠原道生の言葉
私は絵を描いてしか 身をたてられません
私は絵を描いてしか 身をよこたえられません
何もなくなった 空のために   
それもウソ それも真
絵を描くことだけなのです。

<91.2.1 篠原道生>

■ 夭折の画家-篠原道生プロフィール
人物に孤独感と不安の影
絵と純粋に立ち向かう略歴
1960 栃木県足利市生まれ
1987 多摩美術大学院修了
1987 イタリアへ渡る(3月~7月)
1992 12月10日 早朝逝く

■ レビュー
1992年の12月10日早朝、「私は絵を描いてしか/身をたてられません/私は絵を描いてしか/身をよこたえられません」と遺し、無名の画家・篠原道生は32歳の若さで東京・北青山のビルから飛び降り自殺した。生前は、昼夜問わず絵を描き、満たされない心を詩に綴り、純粋に生き、世俗にまみれる事なく自己を燃焼させ、32歳の若さで自らの命を断った。
 「今笑っていたかと思うと、次の瞬間には急に沈み込んでしまうような感情の起伏が非常に激しいところがあった」と遺族の一人は言う。その後、アトリエに遺された膨大な作品を、遺族の許可を得た多摩美術大学の旧友たちが奮闘し、遺作展開催に至った。
 画面からほとばしる、痛々しいまでの魂の叫びが衝撃的だ。赤、緑、黄といった原色に、少しづつ黒を交ぜたような、血のように生々しく、鮮々しい色が印象的。さらに、うねりを帯びた画面、点々と配された人間などで、孤絶した作者の姿が浮かび上がってくる。
 不安や寂りょう感が支配する重く哀しい画面だが、のんびりとした牛や太鼓をたたく少年など、どこかほのぼのとさせる牧歌的モチーフも登場する。
 色遣いでは、うねるように描かれた深い藍色の間に、太陽のような真っ赤な色がどっしりと塗られるなどして、強烈な印象を残した。冷たさと温もりが不思議なバランスで同居しているのだ。
 「描くこと」を一途に続けた作者からの、生きるとは何か、という問いかけが伝わってくる。時代を背景に多くの若者の共感を得たEXHIBITIONとなった。

二人の夭折の画家
有元利夫と篠原道生

“夭折(ようせつ)の画家”などというと、とかくマスコミは、その生きざまや画業を美化して書きたがる。しかし、たとえその画家が無名であったにしろ、常に”死”と共生して生き永らえているものとして、ひたぶるに美を探究したものの遺作を見たい衝動にかられるのは当然だろう。
 
 篠原道生は、1960年、栃木県足利市に画家の父全一の長男として生まれた。四年後に東京都青梅市の大東農場に移転、貧しいながらも、同じ年ごろの子どもたちと自然と親しみながら兄弟のように、のびのびと育った。小学校時代から”父に負けない画家”を志し、都立青梅東高校から東京芸大を受験、落ちたあと多摩美大に入り。87年同大学院を卒業、約四か月イタリアに滞在、帰国後、アルバイトをしながら本格的に制作に没頭。東京・八王子で二回個展を開いただけで92年12月、三十二歳で自死。

 今度の遺作展をみると、三角形のどでかいコンクリート塊に押しつぶされそうな男、一見、山野にたわむれるかの男女、宇宙的な広がりの中でマシンのように太く長い腕をバックに男性を描いた三点の油彩と約四十点の水彩、素描が並んでいる。 しかし、どれもフォーブ調の青、緑を主調とした激しい流れの構図なのに、何故か、描かれた人物は孤独や不安の影を宿している。何となく違和感をおぼえる。

 それは大学時代の、友人たちがそうであったように、自由気ままに、”酒を飲み””オートバイを駆って走り””音楽を奏でて歌い””詩作し、写真を好んで撮る”若者。そんなイメージとはほど遠い。ただ詩の遺稿に<私は絵を描いてしか/身をたてられません/私は絵を描いてしか/身をよこたえられません>と書き残しているように、鋭い感性で純粋に絵に立ち向かい、格闘し続けてきたことが推察できる。特に水彩、デッサンに、巧みさと豊かな詩情の中に、今にもこわれそうな女性的な表現、苦悩する自画像などがみられる。時流に合わせて小手先でごまかしたり、ご都合主義でその場しのぎをする多くの作家たちのように、創造者として相反する道を歩み続けることを許せぬ純粋さが、彼を魂のふるさとに呼び戻したとしか考えられない。
<読売新聞 1994年12月12日 月曜日 夕刊にて掲載>